友達を失った話

「こんな状況だったらあの子はどんな言葉をかけてくれたかな」

苦しい時、壁にぶつかった時ふとそんな考えがでてくる。しかし、あの子とは連絡する手段すらない。縁を切られたから。

中学生の時。Y子と仲が良かった。オタク気質でひょうきんな性格で下品なネタには一緒に爆笑する仲だった。中学を卒業して成人式の前後までは普通にLineでやり取りしていた。でも、ある日、偶然が重なってY子とのメッセージに、いじめっ子のA子が割り込んできたせいで、当時の嫌な記憶が蘇ってきたんだろう。気が付いたらLineをブロックされた。何か笑いたいなって時に一緒にいたかった友人を失った。

高校生の時。M子とK子。M子は自分の人生設計や哲学が既に固まっていて非常に大人びていた。自分が不登校になった時には、いつも励ましてくれた恩人だ。卒業アルバムには「人生どうにかなるよ!」とさりげなく背中を押してくれた。Lineを交換しなかったため縁が切れた。躓いて落ち込んでいた時、M子はどんな言葉をかけてくれたのかな。

K子。一番謝りたい相手。バカなことをして色んなことに一緒に挑戦してくれた。でも一番迷惑をかけた。躁鬱で例えると、躁のようなテンションの時に実現不可能な案に無理やり付き合わせたことが重なって見切られた。修学旅行も同じグループだったが、本人は本当に耐えられなかったと思う。片思い相手に「顔写真を送れ」と言われたんだけどと相談したら、怒った顔で「そんな失礼なことをしてくる人を相手にするな」と必死に止められた。「自分を大切にする」「人としての礼節を大切にする」をすでに身に着けていたのかな、と思うとあの頃自分自身が粗末に扱われていることに無自覚だったなと。高校の同窓会Lineを眺めていたら「K子が脱退しました」とメッセージが残されていたのを見つけてふと思い出した。

大学時代。S子。思ったことを口にする性格であざとい性格なので敵は多かったものの、困ったことがあれば一目散に助けてくれた。それに甘えすぎて怒られたこともあったげど。なんだかんだ観察力があり、友達も多いのでアドバイスは非常に的を得ていて耳が痛くなることも多々あり。でも、S子が潰れかけた時に、可能なかぎり寄り添ったが邪魔者が入り限界がきてしまった。一時は仲直りできたが、自分が就活で上手くいかなくなった時に、何歩も先に進んでいるS子に嫉妬し軽い気持ちで「あの子がこれまで体調悪いって言ってた嘘じゃん」と言ったら、それを聞いたN子がS子にチクった。S子は話し合いの機会を設けようと提案してくれたが自分は拒否した。後日S子の裏アカを発見し発言が幼く独りよがりなことに失望して、Twitter以外のアカウントをブロックした。

N子。口が軽い。でも自分が就活で悩んでいた時に、アドバイスをくれたおかげで就活がスムーズに進んだ。その点とかで非常に感謝しているけど、口が軽いのは許せなかった。こちらからTwitterのフォローを外した。

社会人。もう一人のK子とE子。高校時代からの付き合いだった。留学時代、就活の時など色々と助けてくれた。でも、K子が転職先のことで悩んでいて、色々と不満をきちんと傾聴できず、正論ばかり言ってしまい追い込んでしまった。そして気が付いたらLineをブロックされていた。自分の愚痴をたくさん聞いてくれたのに、いざ立場が逆になったときにお返しができなかった。友人を感情のゴミ箱扱いしてしまったことを反省している。Line以外はフォローしてくれているので本心が分からない。

E子について。まぁ...社内不倫した挙句の果てに逆切れをしてきたので、こっちとして反省することは無いが惜しい人を失ったとは思う。頭は悪かったが、男女関係の駆け引きはうまかったので、自分が当時のパートナーを揉めた時にいいアドバイスをくれただろうなと思う。あと、飲み仲間でもあったので、適度に息抜きして休職まで追い込まれなかったかもな...

両親に殺された感情を取り戻す(5/5)

社会人生活4年目までは、己のコミュ力の低さで本当に苦労した。

でも、同期や同僚は優しかった。でも、コミュ力の低さ、頑固さのせいでみんな自分から離れていった。

振り返って気がついたこと。カリキュラム通りにやれば、コミュ障でも学生時代は優等生になれる。でも、社会人って自分で諸々の設計をしなくちゃいけない。そのためには、周囲の人を味方につけて、色々と教えてもらえるように愛想よく振る舞う必要がある。

そのあたりも知らず、取り返しのつかない失敗をしまくった。たぶんこの失敗って普通の人は物心ついた頃から経験したことなのかな、と思うと自分の出生を呪った。

これまでの反省するため、非礼をしてしまった人たちに謝罪、コミュ力の高い人から人間関係や仕事の進め方、立ち振る舞いを教えてもらったり、定期的に飲み会や企画をやってグループでの立ち振る舞いを学んだり...

お察しのとおり、自分の両親、もちろん姉たちも社内政治の手前である人間関係が下手だった。因果関係があるかどうか分からないが、母親、姉二人はうつ病で休職している。3人とも共通しているのは、要領が悪く、それをカバーできるほどの愛嬌も無かったことだと思う、家庭内での彼らの立ち振る舞いを見た感じ。

実際、母親は電話口で誰かと頻繁に口論してるし、一番年上の姉は同僚や上司をぎゃふんと言わせた話を自慢げに話すし。あと、真ん中の姉は要領が悪く思い込みが強く逆恨みをする性格。あとかなりのコミュ障。というか赤ちゃんの頃発語が遅すぎて、祖母から発達の遅れを心配されてほど。

難関国立大学、有名大学を卒業した二人は自分たちのことを頭がよく社会問題に関心がある善人と思い込んでいるんだろう。でも、適切な交流を経験してこなかったからか、非効率で古臭い慣習にも理由があること、言葉にしないだけで皆色々と悩んでいるということを知ることができなかったのだろう。

それなので、上手くいかないと自分の立ち振る舞いを反省することなく、他人や組織を批判するようになる。社会人になってから本当に酷かった。「私たちを理解してくれない社会がおかしい」と自分の言動を反省することなく、それどころかそれを上手く解決に導いてくれない社会/周りの人間がバカであると。

「他人に甘えるな。自分でやれ」とギャーギャー偉そうに言っていた姉たちだが、自分たちの発言が跳ね返っていることは気づいていないらしい。

ちなみに、自分も休職した。母親が「気持ちを吐き出していいんだよ」と気持ち悪いことを言ってきた。高校時代のように「いつまで寝てんだよ!」とヒスられることが想像できたのでメッセージは無視、実家には帰らなかった。

奴らのアドバイスは全く頼りにならないのが分かりきっていた。あと、そんな状態になった私に対して待っていましたと言わんばかりに「実家に戻らないか」と言ってくるだろう。表向きは子供を心配しているだろうが、介護要員を確保するために色々と洗脳してくることを一番警戒していた。

というか、実際に「実家に戻らないか」と言われたことがある。秒速で拒否した。

話の流れ的に許せなかったからだ。母親が急に「過去にあなたを殴ったが、あの時はそうするしかなかった」と過去の虐待を正当化してきた。そんで、「実家に戻らないか」と言ってきた。自分の暴力を正当化して、挙句の果てには介護要員になれと解釈できそうな発言をする。

その時、「あぁこっちを一人の人間として認識してないんだな」と思った。社会人で実家を離れ、姉二人と違って転職もしていない。新天地で友達と仲を深めることもできた。あと資金援助無しで歯列矯正の費用100万円を捻出した。休職したが傷病手当も受け取れるから資金的にも困っていない。

曲がりなりにも新天地で頑張ってきた。それなのに、それを全部捨てて、僻地で仕事を探し老夫婦の介護をしろと。介護離職、昔NHKで放送していた「ミッシングワーカー」が頭をよぎった。

「大学で学んだことは宝」とか「キャリアは死守しろ」とか綺麗ごとを言っていたけど、本音を聞けば「今の仕事と友人を捨てて介護要員になれ」とか。

この清算期間を経て、いかに家族が異常であるか思い知らされた。これを自覚してからは、家族からlineが来ただけでも吐き気がするようになった。

あと、郵便物が来たときは倦怠感で2日間寝込んでしまった。もちろん郵便物は「受け取り拒否」で突っぱねた。そしたら、親が会社に電凸してきた。でも会社の人が適切に対応してくれたため、電話で直接親と話すという最悪なケースは避けることができた。

両親は自身の加害性には気が付いていないし、そんな人たちに「変わってほしい」と願うのは無駄、裏切られるだけ。だから、静かに縁を切る準備を進めるだけである。

メンクリの先生にも、友人A子も「親を説得するのは無駄」と教えてくれた。さらに、先生には「親や姉たちからの洗脳から脱出することが治療の第一歩だ」と。

このように他人に読まれることを意識して自分の人生を振り返ると、これまで蓋をしてきた記憶や感情がよみがえってきた。幼少期や青春時代、学生時代の自分を捕まえて、「あの時私はどう感じた?」「どうすれば事態は好転したかな?」「あの時友達はどんな表情をしていた?」と消し去ろうとしていた記憶の形を取り戻そうと思う。

道半ばだが自分の感情を取り戻すために、自分に問い続け、友人と語り合うことを諦めない。

両親に殺された感情を取り戻す(4/5)

「人生でやり直せるならいつがいい?」

自分は「大学時代」と答えるだろう。同級生は都会出身で教養もありコミュ力も非常に高かった。もしも彼らから人間関係の築き方、立ち振る舞い等を学べるような柔軟性があったら自分の社会人生活は180度違っただろうなと後悔している。

でも転換点ではあった。4年生の時に1年間留学した時のこと。

1年間家族から離れ、日本人が少ない外国にいると同郷の人や友人に頼ったり語り合うことができたため、人間関係の築き方を知ることができた。家族以外の人と密にコミュニケーションを取るという非常に貴重な経験ができた。

この経験のおかげで、他人を一人の人間として認識できるようになったのも大きな進歩だったと思う。あと、クラスの先生が「自分の感情を隠さないで」と根気強く伝えてくれたことも大きい。たぶん人間不信で卑屈な性格が顔に出ていたんだと思う。

そこでは人間関係も学ぶことができたし、一番大きかったのは自分の感情や意見を言えるようになった。一人旅をすることで、自分で決める経験を積むことができたので、徐々に家族から感染した毒が抜けていったんだと思う。

でも、留学の後半に入ると例の過眠症が出てしまい、かなりまずいことになったが皆のお陰で乗り切った。感情表現はできるようになったが、疲労が溜まった時の対処法までは手が回らなかったことが原因だと思う。

帰国してまた実家での生活が始まったが、端的に言って地獄だった。就活の準備が万端でなかったこともあって、売り手市場なのに内定がでない。どこも最終面接落ち。

急に父親がESを直してやると言いい、内容を見せたら「バカだな」とかなりきつめの言葉で罵倒された。自分の落ち度ではあるが、嫌な気持ちになったので、それ以降は頼らず、とにかく数をこなして型を身に着けた。また過眠の症状が出て、高校時代のとは異なるメンクリに行ったが、そこでも何の疾患でもないといわれてしまった。

自分の準備不足が原因であることは自覚があるが、何よりも辛かったのは親戚との集まりでの父親の発言。「売り手市場って言われているのに内定が無いなんてよぉ...」

自分の不甲斐なさは理解しているが、親戚の前で公開処刑されて本当に傷ついた。

なんとか就職は決まった親は不服だったらしい。「〇〇さんの子供は△△(有名企業)に内定した」、「調子が良ければ□□(省庁)に受かったかもな」と言われたので、こっちの就職先については不満なんだなぁと悲しい気持ちになった。

言い訳をしたいよ。まっとうなコミュ力を幼少期に身に着けていれば、面接でのやり取りもスムーズだったかもしれない。あと、他の友人に聞いてみたら、webテストの代理受験(違反ではあるけど)とか面接の練習とかやっていたみたいで、"協調性の無さ"が最後になって足枷になっていたことに気が付き絶望した。

コミュ力はある程度マシになったが、普通の人の足元にも及ばないレベル。だから社会人になっても本当に苦労した。

両親に殺された感情を取り戻す(3/5)

そんな感じだったから、学生生活は悪夢だった。

しかも最悪な外的要因も加わった。それは中学時代に通ったスパルタ塾。

卑屈さと勉強嫌いが加速したと思う。雰囲気は昭和の受験戦争時代という感じで、中学3年では9:00~22:00まで塾に缶詰め状態、携帯電話の着信音が鳴れば犯人を捜すためだけに授業を1つ潰して大声で怒鳴りまくる等。

日常的に苦しめられたのは、ヒステリックな塾長、3人掛け机にギチギチの状態で勉強を強いられる環境だった。そんな環境だったのでそこの卒塾生は希望校に合格できたものの、その後は勉強嫌い、卑屈さが悪化して大学受験に失敗している。

それに加えて、塾長は学校の教師を見下しており、その考え方は塾生にも伝染した。「学校の先生の言うことは信じるな」これは口癖だった。今振り返ると、大人げない発言だし、これは塾生を洗脳するための発言だったのだろうと思う。

これは想像だが、塾長の人生は不本意なものだったかもしれない。そう察するものがいくつかあった。そもそも大学進学率が低い北関東のド田舎、なのに塾長は開成高校を受験したが不合格だったと彼の同僚がポロっとこぼした。

塾長は地元にある公立高校に通い早慶に合格、ラグビー部に入った。普通は都内の企業に勤めるはずだが、彼はド田舎にある親の塾を継いだ。年齢的に彼は就職氷河期の世代。想像だが、就職に失敗したのかもしれない。ラグビーをやっていたのでコミュ力は問題ないし、体育会系のコネもあったはずだ...

本人の強い意志で塾を継いだのかもしれないが、私も同じ立場だったら相当拗れたかもしれない。

自分は希望する高校に合格し、恐怖政治をする塾からも距離を置くことができたが、その副作用かもしれないが自発的に勉強する気力が無くなった。

話が逸れた、本題に戻る。

高校デビューに憧れて目立つことをしたかった。「友達100人作るぞ!」と意気込んだけど全部空回り。クラスの人から陰口を言われ、親切だったクラスメイトから見放された。しかも、成績も非常に悪く後ろから数えたほうが早かった。人間関係も勉強も失敗だらけで、ついに過眠症状がでて、高校3年生の5月~6月まで休んだ。

母の勧めで地元のメンクリに通ったが、親子関係の問題にまでは切り込まれなかったため意味がなかった。当時でもそんな直観を抱いていたので、母親に転院をお願いしたら「ダメだ!」と却下された。

今思えば、融通が利かないとか、前例に異常なまでに固執する等、もしかしたら母親は発達障害人格障害があるのかもしれないと思う。ちなみに母親はうつ病り患歴あり。

普通に考えたら、子供がメンクリに通うこと自体が異常事態。でもこの母親は「世間の不条理のせいで壊れてしまった可哀そうな子」って本気で思い込んでいた。自分が子供を虐待したせいで心の拠り所、自己肯定感を育むことができなかったのも一つの原因であることに自覚も無い。

すんごく不気味なのが、そんな奴に限って、子供が弱った時は不気味なレベルで優しいんだ。弱った子供を労わるワタシ、そんな状況に追い込んだ世間に憤慨する正義感の強いワタシ、という感じでね。

でも、その優しさ()も期間限定でさ、あと不安症が悪魔合体すると最悪なんだよ。ある日寝込んでたら「いつまでそうやって寝込んでるんだよ!!」と叫んで無理やり登校させられた。

何も言い返すこともできず、不調な体に鞭を打って無理やり登校する。今でも覚えているけど、全力で自転車を走らせたら嘔吐した。でも家に帰るわけにもいかず学校に行って、自転車に付着した嘔吐物は今でも記憶にへばりついている。

一定期間休んだので、頭も動くようになり成績は上位に食い込むくらいになった。そのあとは割と順調で、浪人して希望する大学にも合格した。ちなみに通った予備校は放任主義というかカリキュラムも緩かったので自分の性格にあっていたのも良かった。

でも、劣悪な家庭環境、低いコミュニケーション力、頑固が直らないまま大学生活に突入し苦労した。

両親に殺された感情を取り戻す(2/5)

過去の清算を行うにあたり、似たような経験を持つ友人(A子)の存在は本当にありがたかった。自分の家庭環境がどれほど過酷で異常だったのかを知ることができたから。

記憶の清算の第一歩は辛かった過去の記憶を思い出すこと。思い出すだけれも涙が止まらなくなるくらい辛い記憶だ。でも大人になった今できることは、その時の自分を思い出して暖かい言葉をかけて労うことだと教わった。

A子と語り合って気がついたこと。虐待家庭で育つと、話し合いではなく暴力で物事を進めることに躊躇しない。

正直に言うと、"親の機嫌を損ねるなどの悪いことをする→暴力をふるって思い通りにさせる"という流れが常識だと本気で思っていた。だから、何か引っかかることがあると、友人のせいにして、話し合いをすることなく殴る蹴るなどの暴行を加えてしまう。

最悪なことに罪悪感はなかった。「成敗してやった」とか「矯正してやった」など変な正義感的が沸き上がり、謝罪の言葉なんて無かった。だから多くの友達が私のところから去っていった。自分は本当に最悪な人間だ。

逆に、自分が暴力を受けたらどうなるのか?「悪いことをしたのは自分だから、暴力をふるわれるのは当たり前」って考えになるので殴られても抵抗しない。

そんな暴力が当たり前の環境で、しかも3人姉妹の末っ子、家族のサンドバッグ役として本当に辛い幼少期を過ごしてきた。※だからと言って友人たちに対する暴力を正当化するつもりは無い

上記の状況は、自分にとって当たり前だと思い込んでいた。むしろ「自分が本当に悪いことをしたから暴力をふるわれるのは当たり前」とね。でも、A子からも度が過ぎた家族だと思ったらしく「ひどい家族だ」と指摘され慰められて、やっっっと自分の家庭環境が異常であることに気が付いた。

以下、家族から受けた虐待 ※ありのまま書きます

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両親に殺された感情を取り戻す(1/5)

「自分は冷静で落ち着いた人間ではなく、ただ単に親に感情を殺されてただけ」

 

通院しているメンタルクリニック(以下「メンクリ」)で受講したセミナーでの出来事

一応このセミナーの説明。内容は、日常の困りごとに関連したテーマに沿って、講師の先生が解決方法などを提示する。そしてそれについて参加者が自分の経験等を4人前後のグループになって共有するというもの。

その時のテーマは「自分の感情を感じ取る」

強い感情を抱きやすいシチュエーションが複数挙げられた。例えば、雨の日通りすがりの車に水をかけられた等。それぞれの場面では、自分がどのような感情が沸き上がったか話し合うという内容だった。

いくつかの場面で自分は「何も感情が起こらない、ただフリーズしちゃうかもな」と思った。他の参加者も似たような感じだろう、と思って語り合いに入る。

ところが、「フリーズする」と答えた人はいなかった。他の人は「イライラした」とか「驚いた」とか言っていた。「あれ?フリーズするの自分だけ?」

割と強めなショックを受けて考え込んでしまった。でもそこで気が付いた。

「悲しい、ムカつくなどの感情をずっと見て見ぬふりをする癖がついていたんだ」

振り返ってみれば、幼少期から両親からの暴行等の虐待に遭ってきた。「悲しい」、「怖い」などの感情を押し殺さないと精神がもたない家庭環境だった。

 

自分がこのメンクリにたどり着くまでの経緯

10年間メンタルの不調というか過眠症に悩まされ、うつ病とかの精神疾患を疑い色んな病院に行った。でも、どこでも、「うーん...あなたはどの精神疾患には該当しないね。どうしても病名が必要という事情なら"自律神経失調症"ということにしましょう。」

精神疾患ではないものの、何かしらの病名がないと対処できないな...どうしよう...

「不眠ではなく過眠?」と信じられない人もいるかもしれないが、一応説明してみる。

食事、トイレ、お風呂の時間以外は寝込んでしまう。この症状は1か月ほど続き、このせいで高校も留年しかけ、社会人では休職に追い込まれたほど。周りからは「怠け者」とレッテルを貼られ辛かった...

会社員だと解雇という洒落にならない事態になるので、信頼している先輩の紹介でこのメンクリに通うことになった。

自分の症状をつらつらと話したら、先生に「自分が我慢すればいいんだって限界まで耐えちゃう性格でしょ?」と言われハッとした。さらに「そういう人の親はヒステリックでさ、子供に対して異常なほど我慢を強いるんだよ」と、あ~確かにその通りだ...

睡眠障害、過眠等」と診断された。

この診断書を片手に会社にも事情を説明してなんとか休職できた。この病気に理解を示してくれた会社には本当に感謝している。ちゃんとした診断名がついて、変な言い方ではあるがホッとした。

理不尽なことがあっても「自分が我慢すればいいんだ」と思い込み、ストレスをため込み限界くる。その自己防衛のために過眠症が出てしまう。振り返れば確かにそんな負の連鎖の繰り返しだったと思う。

この症状を治すためには、この辛い記憶を掘り起こし清算する必要がありそうだ。せっかくの機会だから休職期間に清算しよう!と意気込んだが、これって辛い記憶を掘り起こす作業だから本当に辛かった。

 

続く