両親の介護係の候補になりかけた話

子供時代はサンドバック役、大人になったら介護係の候補。

末っ子の自分は常に家族のガス抜き要因だった

メンクリでのカウンセリングを受けた時のこと。自分が家族からいじめられていたことに気が付かされた。「あぁやっぱりね」悲しいけど直観と合っていた。

末っ子だったからか、自分は家族からサンドバック役にさせられていた。

家族で一番若く相対的に社会経験が浅いことをいいことに「チビ」「バカ」と侮辱されてきた。歯並びの悪さを笑われ、思春期や高ストレスで太った時は「ブタ」と貶されもした。「アンタはウチの子じゃない」と発狂した母に夜中家から閉め出され、「(玄関を)開けてよ!!」泣き叫ぶ姿を家族からバカにされた。

何かに挑戦するとか試そうとするとバカにされた。どの服がいいかアドバイスを求めると「お前に似合う服なんてない!」と追い払われた。クラブ活動ではリーダーを立候補したりと一生懸命に活動していたら「必死になっちゃってさ」とバカにした口調で言ってきた。

物心ついた頃から、家族からバカにされてきた。たぶんサンドバック役だった。

一番問題だったのは母だった。マイルールへの拘りが強く、そこから少しでもズレると暴れ出すので本当に手に負えなかった。殴る、叩く、子供の私物を玄関や車庫にばら撒く、家から閉め出す、1か月無視する、人前で侮辱することは日常茶飯事だった。

拘りの強さも尋常では無かった。一応看護師の資格を持っているので、栄養管理には神経質になっていた。例えば、菓子類は厳禁、鉄分補給のために鉄製のフライパン(汚れがこびりつくので洗うのが大変)など。なお、健康管理は見事に失敗し、子供3人とも思春期は肥満体型になり、父は高血圧など健康不安を抱えている。

あと喧嘩っ早い性格なので、友達も少なく、その性格を反省して言動を改めるということもしなかった。自分は親切で、思慮深く、傷ついた経験があるから人の痛みが分かる人間と本気で思い込んでいる。

友達が少ないというか、いないんだと思う。長女通う高校の文化祭の日に事件は起こった。母に文化祭に一緒に行こうと誘われたが、気が乗らなかったので断った。そのことに腹を立てた母は、私の部屋が汚いことを口実に家から私を閉め出して、母一人で文化祭に向かった。

ただ、家に出る直前にこっそりと廊下のカギを開けたので、母が家から離れたことを確認して家の中に戻った。たぶん、文化祭には行きたいが他に誘える同年代の友人やママ友がいなかったこと、子供にも断られたというダブルのショックでおかしくなったんだと思う。

あと、母は掃除について異常な拘りがあった。特に母の友達が遊びに来るときは憂鬱だった。八つ当たりをするように掃除をするので、物が当たる音が本当に不愉快だった。あと、玄関の掃除をほうきではなく、掃除機でガチャガチャと汚れを吸い込ませようとする異常な行動をする姿を見るだけでも吐き気がした。

そんな性格なので、掃除が苦手な私との相性は最悪だった。唐突に部屋に入ってきては「部屋が汚い」と叫び声を上げ、私の私物を玄関や車庫にばら撒いたりした。

母は綺麗好きというか、完璧主義だったので、一応身の回りの整理整頓は人並みにできている。次女にもそれが遺伝しているが、逆に規則性や反復性にこだわりを持っているため、手際の良さや臨機応変な対応が求められる料理は本当にダメだった。例えば、5mm幅にカットする時は定規を出したり、重さもグラムを寸分の狂いもなく計るなど、発達障害の中でも自閉症傾向を疑われるような行動が多い。

母と正反対の性格だったこともあるが、母は違う性格の人と落としどころをつけるとか、性格が違うことを認めて相手を尊重するという選択をしなかった。他の家庭との交流する機会が無かったことも、自分の価値観が凝り固まった原因だと思う。一応習い事も挑戦してみたが、飽き性なのと、ド田舎で初対面の人と交流する機会が少ないので友達作りにも苦労して続かなかった。あと、親も人間関係が苦手だったので、その辺のヘルプもなく、自分でなんとかするしかなかった。

話が逸れるが、普通の家庭では人間関係について親から学ぶ機会があるらしい。1年間寮生活をした時に知った。例えば、付き合う人間について自分の基準を持ち選別する、非常識な人にはNOと言っていい、それと同時に嫌でも表面上は取り繕うフリ、協調性を持った立ち振る舞いをするなど。

自分の親は、コミュニケーション能力が低すぎたので、ド田舎に住んでいて人間関係が希薄だったので、付き合う人を選別するという段階にいなかったのかもしれないが。人間関係が希薄だったので、関わってはいけない人が存在すること、というより自分たちが関わってはいけない人間であることを知らなかったようだ。

あと、親のやばさが普通だと思っており、やばい人に慣れきってしまったので、特に大学時代は変な人たちに絡まれてもNOと言えず本当に苦労した。普通の人なら、挨拶の時点で違和感を抱き秒速で切られるレベルの人にすらまともに相手をしてしまった。

でも、1年間寮生活をして、常識的な言動を友人たちから学び、嫌な人とは関わらない、自分の気持ちを大切にすることを習慣化したら、1か月もしないうちに行動が変わった。すると人間関係の悩みも劇的に減少したのと、自分で決断するという癖がついたので活動的に過ごせるようになった。

寮生活も終わり、実家に帰ってからは家族との衝突が増えた。嫌なことは嫌だと言えるようになったのが原因だと思う。私へのイメージが、歯向かわない、おどおどしている人から変わっていなかったから家族は困惑したんだと思う。

話を戻す。家族としては「自分の意見が言えるようになった」というより「サンドバック役が言い返してきた」とショックを受けたのかもしれない。

それ以降も、風当たりの強さは変わらず、あと姉たちの会社員生活が上手く行かなかったことも重なり実家は居心地が本当に悪かった。

一番意味不明な事件が起こった。自分が希望していた会社に就職が決まり、その報告を家族lineに投稿した時の話。おめでとう、の言葉もなく、なぜか「個人情報の管理が甘い」といちゃもんがついた。自分が抱えてきた思いを家族にぶつけた。

どんなことを言ったのか覚えていないが、この出来事があってからは長女との仲は険悪になり、一方的に無視されるようになった。私の友人がウチに遊びにきてもあからさまに無視して、その様子を見た友人すら緊張した様子だった。

長女はヨーロッパ崇拝系の出羽守で、会社員であろうが自分の意見をズバズバ言えるワタシに酔っていたが、どうやら他人、しかも末っ子が同じことをするのは嫌った。

思い返してみれば、転職活動も上手く行かず、翌年は年齢制限に慌ててフランスにワーホリに行ってたくらいなので、心はボロボロだったのだろう。だからと言って、末っ子の私をサンドバック役にしたことは許されないが。

次女も状況は悪かった。新卒で入社した会社は3か月で退職。人間関係が苦手で、家事もろくにできず要領も悪い人なので一人暮らしにも失敗したのだろう。

その後も上手くいかず、20代で仕事を転々とし転職エージェントすら相手にされないほどだった。あと、長女からの「一人暮らしをしなければいけない」という洗脳もあったが、一人暮らしに失敗した苦い経験があるので、必死に婚活していた時期だった。婚活に上手く行かず家族に奴当たる始末。結局、年下で小太りの隠し事をする癖がある難ありと結婚した。ちなみに、自分は結婚式を欠席した。

次女は自分の不遇を嘆き、仕事が辛いと家族に八つ当たりをしてきた。本当に手が付けられない状況で、さすがの両親も恐怖心を抱いたらしい。次女の言いなりになったり、家事も全部親が引き受けていた。次女はそのことに対して感謝はしなかった。

会社で苦労した姉たちだが、痛みを知って優しくなるどころか、被害者意識ばかりが強くなっていった。

私の就職先は昭和の雰囲気が残る不動産の会社で、社風の著しい不一致から心身の不調に悩まされていた。その頃は、「定期的に実家に戻らなければ」という思い込みがあったので、頻繁に実家に帰った。そこには荒れ狂った次女が居座り、ストレスのせいか父の髪は真っ白になっていた。さすがに父には同情した。

社会人なりたてでの私に労いの言葉をかけることなく、とにかく些細なことでいちゃもんをつける、家事全般を押し付けてくる、夜中に部屋に怒鳴り込んでくるなど常軌を逸した行動に耐えられなくなった。

次女に反撃をした。父の手料理ではなくコンビニ飯を目の前で食べる次女を叱った。本人の言い訳は「食費を節約するため」だったが、「作った人への感謝を大切にしろ」と言い返した。

あと、次女への嫌味を本人に聞こえるような声の大きさで言った。小心者の次女は虫の居所が悪くなったのか、その場から立ち去った。

実家暮らし、仕事を理由に家事全般も手伝わず、しかも買い出しすらしないので、次女は100万円の貯金ができたらしい。呆れた。

実家は難関国立大学に合格し英語が堪能な長女を崇拝し言いなりになっていた。貧乏で経済的な余裕が無く母の日常的なヒステリック。そんな雰囲気で精神的に疲弊していた家族のガス抜きとして、家族の共通の敵として末っ子の私が選ばれサンドバック役にさせられた。

そのことに気が付いたので2023年の春。家族との縁を切りたいとうっすら思っていた。その頃も定期的に実家に戻っていた。親と色々と話し込んでいた時のこと、前後関係は覚えていないが、母が「最後に頼りになるのは家族だけ」と言ってきた。その言葉に呆れた。

日常の鬱憤を晴らすために、言い返せない立場であることをいいことに末っ子の私はサンドバック役になった。しかも、「あんたを殴ったこともあったが仕方が無かった」と自分の暴力行為を正当化してきたのだ。

しかも、「こっち(実家)に帰ってこないか」と提案してきた。たぶん介護要員というか、まぁサンドバック役が欲しいんだと思う。

そんな気がして、親の提案に対しては秒速で拒否した。親は「なんでそんなことを言うのか」と呆れた口調で言ってきたが、私の決意は固かった。

子供を自分の所有物だと思っているんだろう。子供も一人の独立した存在で、自分なりの生活基盤を他にも築いていることを知っていたら、車社会のド田舎で、ブルーカラーの仕事は役所のみという選択肢の少ない土地に呼ぼうなんて思わないはず。

母の口癖は「知識は大切だから大学進学を許した」とか「結婚出産してもキャリアは捨てるな」だった。本気でそれを願ったのであれば、自分の子供を介護係として田舎に閉じ込めるなんて発想すらしないはずだ。結局彼らは"善良"で"思慮深い人"だと本気で思っているのだろう。

子供時代はサンドバック役、大人になったら親の介護係。そんな人生なんてクソくらえだ。

家族歴と自分の気弱性

自分は精神に気弱性があるようだ。

疲れやすく社会人生活に支障をきたしているので、色んな病院を回って原因を突き止めようとした。結論、親戚で自殺した人がいるから、その遺伝のせいで気弱性がある可能性が高いということだった。

自分は睡眠障害の中でも過眠症に悩まされてきた。最初はホルモンの乱れが原因かと思い婦人科へ。生理前特有の眠気問題は解決。でもこれまでとは違う感じの過眠に襲われた。メンクリに通い、過眠専用の漢方薬を飲んだが、2~3か月したら症状が復活する。

睡眠外来に行ってみた。突発性過眠症の可能性は低いと判断され、睡眠相後退症候群の可能性があると診断された。睡眠リズムを整える習慣をつけるために、寝る前30分のスマホやテレビ禁止などを実践している。これが過眠症状の予防につながるといいのだが。

最後の望みと、成人期発達障害外来に行った。そこでは結論、自閉症ADHDと診断は下されないだろうということになった。話を聞いたところ、自閉症と診断される方は本当に友達が作れないとのこと。幸い自分は友達作りだけは問題なかった。続かないことが多かったけど。あと、ADHDは話が頭に入ってこないので、議事録とか全然書けないようだ。自分はどれにも該当しない。

先生も困った様子だった。無駄な時間になったら失礼だと思い、自分がここに受診するに至る経緯を語ってみた。先生は親身に話を聞いてくれた。そして、精神の気弱性に問題があるかもしれないと考えたようで、家族歴について質問してくれた。

「親戚で自殺した人はいるか?」記憶の奥に蓋をしていた記憶が開いた。「あぁいます...祖母を自殺で亡くしています...」

親ははっきりとは言わなかったが、内容から察するに祖母は自分で命を絶ったようだ。死後まもなく、祖父が後妻さんを連れてきた。それを見た子供(私の母、伯父)は「父が浮気をしたせいで母が自殺した」と考えたらしい。それが原因で伯父は家出した。

あと、父の家系も問題があった。母(私の祖母)は父が小学生の時に亡くなったらしい。死因はいまだに分からない。でも自殺だと思う。死因を隠したがるから。

あと、父の兄は統合失調症だったと聞いた。だから親族と会わせることができなかったと父が語っていた。だから伯父と最初で最後に会ったのは葬式だった。ちなみに死因は老衰。

これまでのことを纏めると、自分の気弱性は遺伝的なものに起因している可能性が高いということ。そこに、虐待被害が加わっておかしくなったのだと思う。

うつ病って発症するかどうかは遺伝子次第という研究結果があるようだ。詳しい話はここでは省略するが、うつ病を発症するかどうかは、環境要因よりも、遺伝要因が大きい。だから、「うつ病心の風邪。明日は我が身だよ」と綺麗ごとを吐く人もいるが、発症するしないは遺伝子次第なんだろう。

でも、環境次第では発症リスクが下がるからと、転職を勧められた。頑張る。

これまで蓋をしてきた記憶を短時間でバァーー!!!!と開けたせいかエネルギーを大量に消費してしまった。その日は寄り道をせずに、近所のスーパーで高カロリーの食べ物を買い漁った。ポテチ、フライドポテト、お寿司とか。

遺伝的な要因による気弱性ともなると、治療方法がどうなるのか、メンクリの先生に聞いてみようと思う。たぶん以前から言っているように「自分の感情を取り戻す」という作業が一番の近道だと言ってくれるとは思うが。

 

 

実家が長女の独裁状態な話

自分が正しいと疑わず、一挙手一投足を非難してくるような高圧的な人、あなたの家庭にいますか?

普通は両親が家庭の運営を仕切って、子供はそのサブ的な役割という感じだろう。

ウチは両親が半ネグレクトで、親は家庭の運営どころか交通整理すらできていなかった。

そんな状況を察したのか、長女が家族のことを仕切り始めた、いや正確に言うと恐怖政治に近い運営を始めたのだった。

そんな雰囲気がしたのは長女が高校入学してからで、どんどん強権的になっていく。

高校入学前は子供だったし、体も小さかったから親による押さえつけができる状況だったが、高校生になり体格が親を追い越した頃から形勢逆転した。

両親は頻繁に暴力をふるうような人間だったので、それに対する復讐心のようなものもあったのかもしれない。実際、母の機嫌を損ねると「あんたはウチの子じゃない!」と叫び声を上げて無理やり玄関から追い出すという光景は当たり前だった。なお、姉妹3人ともこの被害に遭っている。

長女に対する侮辱的な行動は他にもあった。なんと髪形をパッツンのおかっぱ頭にさせていたのだ。当時を振り返った時、次女が「姉ちゃん髪形変だったよねwww」とバカにするくらい強烈なものだったらしい。

やばい親の例で、わざと変な身なりにさせて可愛くさせないというのがあるらしい。可愛くなってほしくないという...親の本音は分からない。もしかしたら、親が幼少期を過ごした昭和時代はそれが当たり前で、そこら辺の価値観のアップデートができていなかった可能性も無くはないが...

話が逸れるが、母のファッションセンスも悪く、しかも古い服を捨てられない性格も加わって最悪だった。入学式に着てきたのは、バブル時代に流行ったであろう肩パッドが入ったワンピース。本当に恥ずかしかった。

しかもなぜか服の選ぶときに口を挟んでくる。私が成人式や卒業式用の袴を選んでいた時に、母が薦めてきた袴の柄は激安服特有の安っぽいビビットカラーのものだった。不快だったので「センスがダサいから口を挟まないで」と突っぱねた。

もともとファッションセンスが悪いのと、他の人の意見に耳を傾けない頑固者だったので服のセンスとか個性以前に、無難な服装というのが分からないのだろう。

私が社会人になっても、こっちの好みを聞くことなく、センスの悪いセーターやマフラー、バッグを送り付けてきたこともあった。「これはブランドものだから」とだけ言って断りにくく恩を着せるような言葉も添えてきた。でも全部捨てた。

話を戻す。相手の好みや希望を聞くことなく、自分が送り付けたいものを一方的に押し付けることが当たり前の家庭ではあった。子供は無意識のうちに「親は正しい」と思うようになるので、親と同じような押し付けがましいことを友達にもしていた。

子供って判断力が未熟なので、失礼で押しつけがましいことをされても拒否することはめったにない。例えば、友達は盗難の被害に遭っても犯人との交友関係を続けるということがあった。でも、高校以降ではガラッと変わり、嫌なこと失礼な人に対してはハッキリと「NO」を突き付けることができるようになる。そして、大学以降は大人の対応をとれるようになるので、不快感を感じたらスッと距離をとり壁を築く。

そんなことを学ぶ土台も無く、自分の考えを押し付けることに何の罪悪感も抱かないまま年齢だけを重ねていった。でも、周囲の人からキツく怒られることがあったので、外ではおとなしく黙っているが、家ではその鬱憤を晴らすという内弁慶な人間がいた。

そんなわけで、体格が親を超え形勢逆転したら、長女がおかしな親を押さえつけて、まともな家庭環境に変わることもなかった。

長女は自分が正しいと疑わないので、マイルールに固執し、些細なことでも1ミリでも外れようものなら、「バカ」「非常識」と強い言葉で侮辱してきた。長女の身長は170センチを超えていて肥満体型だったので、体格に圧倒され言い返すこともできなかった。

一応家族もプライドはあるので、バカにされないために長女に迎合していた。ちなみに、なんでも長女を模倣し、言いなりになる次女と違って、末っ子の私は長女たちの正反対のことをした。違う部活動、違う学部。それが気に食わなかったのだろう。私は姉たちから仲間外れにされた。

あと、姉たちは年齢差を考慮するほどの頭も無かったので、6歳離れている私のことを「バカ」だの「アホ」だの侮辱してきた。あと思い当たる節がないのだが、なぜか「エロチビ」とバカにしてきたこともあった。

そんな長女は同じことを職場でもやったようだ。本人は武勇伝のように色々と語っていたが、内容を察するに「仕事ができるズケズケと意見を言うワタシ」という感じで、一緒にいるだけでノイローゼになりそうだが。一応上司は理解のある人で長女の痛々しい発言を上手いぐあいにフォローしていたらしい。

ある日の飲み会での出来事。前後関係は分からないが、上司の「○○(長女の名前)はリベラルだからな」という発言に対して、同僚が「は!?共産党支持者かよ?」とリアクションしてきたらしい。周辺情報が無さ過ぎて、なんと反応したらいいか分からなかった。とにかく職場では嫌がられていて、ちょっとした発言でも過剰に反応してしまうくらい同僚がピリピリしているんだろう。

確かに一緒にいるだけで心が擦り切れるんだよね。一挙手一投足ダメ出ししてくるから。姉の職場の近くにエスニック料理屋さんでランチをした時のこと。まったく土地勘のない場所に急に呼び出され、しかも「口内炎になったから薬を買ってこい」と指示がきた。急いでお店に向かいながら、口内炎の薬も買った。

そんで、お店に到着し、口内炎の薬を渡したところ「普通さ、何か食べても薬が剝がれないようなものを買うでしょ」と文句を言われ、気まずい雰囲気の中ランチを終えた。行ったこともない場所に急に呼び出され、挙句の果て買い物まで頼んできて、しかも具体的な要望も示さず、買ってきたものに対して文句を言う。

職場だともっと酷いんだろうな。

事情はよく分からないが長女は休職した。そんで、フランスにワーホリに行った。外国で苦労して丸くなってほしいという願いも無念にも破られた。

失礼を承知で言うと、人生設計の王道を外れると、イレギュラーな自分の人生を正当化したくなるらしい。特に長女は悪い意味で海外志向が強かった。

自分が転職について相談した時のこと。人生設計や転職について一般論的な内容の話をすると「人それぞれでしょ」と否定し、無理やり人生設計を自分の海外経験に関連付けて一方的にまくし立ててくる。「会社員生活が嫌になったら海外の大学に行ってそこで仕事を見つけろー」と。

大金を必要とするような決断を躊躇いもなく押し付けてくるとは... というか、長女はフランス渡航前に専門の翻訳学校に通っていたらしい。ちゃんと準備をして、ワーホリに臨んだが彼女は帰国した。きっと現地で仕事探しに大失敗したんだと思う。

そのリベンジを他の人を使って果たそうとしている気がして、嫌な気分になったのでそれ以来相談事はしないと決めた。

今でも長女のことは嫌いだが、彼女も母による虐待の犠牲者なんだと思う。

長女が高校生の時に「毒になる親」という本を読んでいたらしい。次女にもその本を薦め、私にもその本が回ってきた。長女と次女はウチの親に問題があることを理解したらしいが、今の二人の言動を見ると母の悪いところをそっくりコピーしている。

第一歩として「否定すること」は重要なんだろう。でも、二人ともその先のステップ、「では自分ならどんな最良の道を選ぶだろうか」という段階に入れていないのだろう。自分も人のこと言えないけど。

親子関係に限らず、とにかく否定が多い。過程を見ずに結果だけを見て文句を垂れる。たぶん、話しかけにくい雰囲気だし、プライドが高く自分が正しいと疑わないから、他人にも優れていることがあると認められないのかもしれない。まぁ、彼らを擁護すると、両親は「甘やかすな」を育児のモットーにしていたので、何をやっても基本的に貶される。

ある意味で長女も児童虐待の犠牲者だが、人の優しさに気が付かず、「渡る世間は鬼ばかり」と本気で思い込んでしまっているのかもしれない。

母との関係(3/3)

自分は変わったが家族は一切変わっていないからだ。発言の内容を振り返っても自分の主張はおかしくないことは、友達もメンクリの先生も同意してくれた。

大きな事件は大学卒業直後に勃発した。卒業旅行が1か月になること、卒業式にはガウンを着ると発言したことがトリガーだった。母は床を叩きながら「学生のくせに遊びやがって!」「誰が学費を払っていると思っている!」と叫んだ。

旅行が長期になる理由は、1週間ほど大学の友達のところを滞在したかったから。めったに会えないと思ったし、実際もう5年ほど会えていない。事情を説明しても理解をしてくれず、寝込まれてしまった。それなので、友人と会う計画は泣く泣く諦めた。というかその時期は講義も終わってるし卒論も提出済みなので、長期で出かけることは問題ないはず。

ガウンの件は、当時20キロほど激太りしたため、首元が詰まる服だけは回避したかった。それを伝えても聞き入れてくれずこれも泣く泣く譲った。自分の卒業式なのに、多分母の考えでは学費を払ったのは自分だから(とは言っても50万円)、それ相応に言うことを聞かせる権利があると思ったのだろう。

子供は自分のアクセサリーと本気で思い込んでいるんだろう。まぁ親ってそんなもんだろうけど。でもその割には、最低限の躾も、身だしなみ、立ち振る舞い、コミュ力、協調性を教えることもなかった。言い換えれば、アクセサリー扱いの割には磨くということを怠ったという体たらく。

そのツケは今でも自分で払っている。丁寧な言葉遣いを学び、体臭対策、服装や髪形の清潔感を保つ、色んな人と定期的に交流、チームワークで仕事をするなど。

社会人になりたてで親からの毒が抜けきっていなかった時期と比べて相当マシになった。というか、みんなから「(良い意味で)変わったね」と褒められるようになった。

というか、帰国後は「コミュニケーションが取りやすくなった」と褒められることもあり、それ以前の自分はどれだけ酷かったのか...

社会人になっても小さな事件は起こった。帰省した時、母が急に「子供たちには暴力をふるってしまったがあの時は仕方が無かった」と言い出した。謝罪の言葉もなく呆れた。しかも「実家に戻ってこい」と続いた。介護要員が欲しいんだろうなと察した。話の流れからも到底許しがたく、「それはありえない」としっかりと拒否した。

それをきっかけに、特に母との交流は控えることにした。Lineを既読無視すれば諦めるだろうという淡い期待は裏切られという日々が半年以上続いた。

そしたら親は何かを察したのだろうか、正月に帰省するようしつこい連絡が続き、耐えられずブロックした。すると、イチゴを郵便で送りつけてきた。親の魂胆としては、これを送ればさすがに返事を返すだろう。そんな気がして気分が悪くなったので、受取拒否した。

さすがに堪えられなかったのか、ついに職場に電凸してきた。会社の人は「個人情報保護のため」とうまい具合にブロックしてくれた。

「親の一連の行動は異常だね」とメンクリの先生ですら完全に呆れていた。「なにがあっても応じてはいけないよ」の念押しされた。

自分はメンクリの先生もドン引きするような親に育てられた。

他の人だと親から教えてもらっていた内容を、20代後半に一人で学ばなければいけないことは正直惨めだ。でも、他責思考の姉二人の悲惨な現状を見ると、遅くてもやらないともっと酷いことになることは明らかだ。

母と関係を断つ準備として、Lineはブロックしたし、郵便物は受取拒絶した。もしも転職できたら住所も新しい職場も伝えることなく、完全にさようならするつもりだ。

話し合いはしない。無駄であることは親友、メンクリの先生と説得されたし、親とは話が通じないことは分かりきっているからだ。

普通の人の倍以上に遅れて人生を歩んでいく覚悟はできた。

母との関係(2/3)

親から何も教わらず、いい方は悪いが"野蛮"な子供時代。ド田舎で粗野な人が多かった地元で自分の存在はギリギリ許された。でも、高校以降にツケを払うことになった。

高校の同級生は「自分を大切にすることと身勝手は違う」「NOと言ってもいい」「相手の時間を尊重する」を身に着けた人たちだった。それができなかった自分は学校で孤立した。誰に対しても優しい人からも見放された。

ただ、遠回しに釘を刺すなど逆ギレされるをリスクを負って指摘してくれた人たちもいた。でも当時の私には単なる嫌味にしか聞こえなかった。大学でも同じ過ちを犯した。高校時代と違うのは、みんなお金持ちで品がいいのでわざわざリスクを負ってまで野蛮な私に指摘はしない。初対面でバシッと線を引かれ、表面上の付き合いされ拒否され、気が付いたら孤立していた。

アルバイト禁止だったことも事態の悪化を招いたと思う。色んな人と交流すれば、立ち振る舞いや社会のルール、チームワークを学ぶことができ、人間関係もかなりマシになったかもしれないと後悔している。禁止された理由は「学生の本業は勉強だろ」という母の言葉だった。あと「お金を稼ぐことを甘く見るな」だった。50代で手取り15万円だったので、まぁ心の底の声だったのかもしれない。

母はなぜか貧乏だと思われることを病的に嫌がった。そんな母の意味不明な拘りというかプライドからそんな発言がでたのかもしれないが。

あと、往復4時間かけて通学したことで、同級生との交流が極端に少なかったことも、コミュ力が育たなかった原因だと思う。表情が硬く意思疎通が難しいから仲間外れにされたのもなんとなく納得できる。それに、バカにされたくないという恐怖心から小難しい知識を振りかざしていたので、本当に嫌な奴だったと思う。

自分のやりたい事を封印されてきたし、自分の頭で考える癖も、適度に人に頼る癖も無く、読み手の気持ちを考えて文章を書く伝える習慣もなかったから、大学のレポートの出来は最悪だった。だから、これらの総合力を問われる留学の志望動機も満足にかけず最悪な内容の書類を出し結果不合格。その辺は一年後になんとか修正して乗り切った。

人生の転換点は1年海外で生活したことだ。実家はあまりにも貧乏だったので、給付型の奨学金ももらえ、運よくその金額内で貯金もできた。コミュ障な家族から距離を取って、常識人と密に交流する機会がたくさんあったことで、まともな人間関係はどんなものかを知ることができた。それでも課題は山積だったが。

非常識で他人との境界線を平気で越えてくる人間に囲まれて育ったので、似たような困った人たちに絡まれることも多かった。見かねた友達が「気をつけろ」と注意してくれたおかげで、あの人たちが要注意人物であること、そしてそんな人たちにはハッキリとNOと言っていいことを知った。人間関係のトラブルは結構減った。

きっぱりとNOが言えるようになったことで、家族との言い争いは増えた。

母との関係(1/3)

ほぼ縁を切っているが、母との記憶を清算しないと前に進めないのでここに記す。

一言でいうと毒な人だった。

小学生の時に母を亡くし、父親が連れてきた後妻さんを浮気相手だと決めけ、兄は中卒で家でし、母は不本意な形で看護学校に入学した。

悲しいことに、母の言動は生育環境が原因ではない説がある。なんと伯父は正反対の性格だからだ。祖父の孫の立ち振る舞いからわかる。

母の発言で覚えていること。「人に頼るな甘えるな」「旨いものを食わせるな贅沢になる」「漫画/ゲームを与えるな」「あんたはウチの子ではない」「本を読まないと人の気持ちを理解できない」等。

日常の困りごとがあっても、「お前はダメなやつだ」と事情も聴かず暴力を振るわれる。大人としての知見を示すことは一切なく半ネグレクトの状態だった。父親がサポートしようものなら「お前が甘やかすからこいつはダメになったんだよ」と怒鳴ってきた。だから、社会人になっても人を頼ることができなかった。

普通に考えたら、子供は未熟なんだから失敗はつきものでしょ。仕事でも、部下が失敗したら、リカバリーの方法や別の手段を一緒に考えたり、そのように行動した理由を聞いたりするのが普通では?

あと、母の手料理は死ぬほど不味かった。一番酷かったのは、高野豆腐とゴボウを卵でとじたもの。鉄の味しかしなかった。「旨いものを食わせるな贅沢になる」という言葉は母(自分から見て祖母)の口癖だったようだ。たぶん、料理が絶望的に下手のなかで苦し紛れで思いついたセリフなんだろう。「家の食べ物は不味い」という思い込みが強く、実家を出るまでは食べ物の好き嫌いが極端に多かった。今は治っている。

看護師の資格を持っているので、栄養管理への拘りも病的だった。菓子や菓子パンは禁止だし、揚げ物の衣は全部剝がされた。鉄分補給を理由に鉄のフライパンしか使用を許されなかった。テフロン加工のものを買うのも非常に苦労した。菓子類を禁止された反動で、友達の家に遊んだ時はスナック菓子を食い尽くして白い目で見られたこともあった。あと、なぜか中学生の時にスナックが解禁されたので、食べまくった姉は激太りした。

あと、テレビの影響かもしれないが、漫画やゲームは教育に悪いだけと思い込んでいたらしい。だから母には内緒で買った漫画「クレヨンしんちゃん」を全部捨てられた。古書店に売ることなく捨てた。子供のころの話題って、テレビ、漫画、ゲームが中心なんだけど、お察しのとおり、友達の輪に入れなかった。でも高学年になった頃から父がお金を出すという条件で漫画やゲームが解禁になった。

でも、共働きだったし、お菓子も無く、中古のゲーム機だから使いづらいので、友達も寄り付かなかった。そもそも半ネグレクト家庭なので、コミュニケーション能力も非常に低かった。あと、日常的に暴力を振るわれたり失礼な暴言を吐かれていたので、最低限のマナーも身についていなかった。だから、学校でも友達を叩いたり、失礼な言動をしたし、友達が描いた絵を勝手に消すなど、本当に野蛮な子供だった。

たぶん遺伝的な要因だけど、整理整頓や掃除ができなかった。そして、母が不機嫌になると部屋が汚いことを理由にして、ランドセルやおもちゃ箱の中身を外にばら撒くなんてことも日常茶飯事だった。子供3人とも発達障害の可能性があるのでたぶんそれのせい。

掃除ができないことに対して、収納スペースを増やすとか、一緒に廃棄作業をするという解決方法は示されず、ただただ自分のものを玄関や車庫にばら撒かれただけだった。あと決まって「姉のマネしてるんだろ」と思い込みも甚だしい暴言も吐かれることもあった。

思い通りにならないと暴れるのも日常茶飯事だった。トリガーは覚えていないが、「あんたはウチの子じゃない」と叫び声を上げて、無理やり夜中に玄関から追い出された。子供にとって恐怖でしかなかった。ド田舎なので街頭は少ないし、ご近所さんも3件のみ。必死に「開けてよ!!」と自分も暴れてなんとか家に入れたが、その必死になっていた姿を後日姉にバカにされた。

夜中は父が家にいたので助けられたが、父がいない昼間は最悪だった。姉が通っていた高校の文化祭当日、母に行こうかと誘われたが断った。そしたら、家から追い出された。玄関から出る前にこっそりと廊下のカギを開けた。母が車に乗って出かけたら、空いている窓から家に入った。姉が通っていた高校は車で片道1時間かかるから、多分母が帰ってきたのは夕方だったと思う。

あと、「本を読め」とうるさかった。本を読むと人の気持ちが分かるようになるという持論だった。そもそも暴力をふるってくる親を尊敬することができなかったから、どんなアドバイスにも反発した。というか、人の気持ちが分かったら子供相手に暴力を振るわないわな。

自分なりに気になる本を選んだが、チョイスをバカにされて読書の意欲がゼロになった。その嫌な経験のせいか、自分の頭では理解が難しい小難しい本を選ぶ癖がついてしまった。「バカにされたくない」という言葉が頭について離れなかったから読書が本当に嫌いになった。

両親と真ん中の姉は新聞や本をよく読むが、人間関係は全然ダメだったと思う。たぶん、母には気軽に誘える友人がいなかったから、自分が文化祭行くのを拒否した時に絶望や怒りであんな仕打ちをしたんだと思う。ちなみに真ん中の姉は一番コミュ力が低すぎて職を転々としていた時期がある。

贅沢をさせないため、あらゆる物は中古だった。まぁ服がおさがりなのは分かるけど、勉強机が中古なのはさすがに惨めだった。なお姉二人は新品を買ってもらっていたしかも収納も少なく、掃除が苦手な自分にとって最悪な机だった。もちろん掃除も苦手なままで、癇癪を起した母が、机に乗っていたものを床に振り落とすことも頻繁にあった。だから、見かねた父が収納グッズを買ってくれたが「そうやって甘やかすから掃除ができなくなるんだ」と絶叫され捨てられた。

友達の家に遊びに行くと、新品の机、洋風で明るく綺麗な家で、実家が貧乏であることを痛感させられ辛かった。ちなみに当時の実家は全部和室。

 

続く

田舎のスパルタ塾に通った人のその後

「おい!誰の携帯が鳴った??名乗り出ろよぉ!!よぉ!!」

犯人捜しのために授業一つ潰して、机を拳で殴りまくりエンドレスで怒鳴る講師。

これは北関東のド田舎にあり、地元で有名なスパルタ塾での出来事。

高校受験では大手塾に引けを取らない合格実績だが、悲しいことに卒塾生の大学受験の成績は芳しくなかった。

結論を先に言うと、この塾に通うとノイローゼになって勉強嫌いになるから。

中学受験には縁がなかった土地柄で、みんな多様性のある()公立中学に通っていたので、勉強をやらせるには強権的な手法を取らざるを得なかったんだろうと願いたいが...

実際、地元では学級崩壊は珍しくないことだったし、首謀者もこの塾に通っていた。

だから、いくら成績が良くても舐めた態度を取ったら、気が弱そうな男の子でも容赦しなかった。実際、塾生からバッグを奪い取って荷物の中身を外へぶち撒けるとかやってた。しかもそれを他の塾生の目の前で。

女の子が相手でも容赦なく大声で怒鳴るとかあった。

そんな光景を目の当たりにした塾生は、塾長の機嫌を必要以上に伺うようになり、それを塾長は感じ取っていたのか、あろうことか自身のブログに自分がイライラしている旨を書いて、塾生を震え上がらせていたものだ。

自分の成績は向上したし、特に素行に問題も無かったので怒られることはなかった。でも、ほかの人が怒られているのを見ているだけで、手が震えだしたりして結局ノイローゼになった。

一番辛かったのは中学3年生の頃。受験対策ということで、朝の9時から夜の9時まで自習するカリキュラムが組まれていた。塾長が頻繁にヒステリーを起こさなければ理想の塾だったのだが。

とは言っても、怒られる塾生はある程度固定されていた。うぬぼれナルシスト男、クラッシャー女、という日常生活でも頻繁に問題を起こしそうなタイプなので本人たちには申し訳ないが自業自得ではある。

でも一番精神的にきつかった事件は、冒頭に書いた「着信音事件」

授業中にメールの受信音が鳴り、塾長から犯人は名乗り出るようにと指示したが無視。一応、塾のルールは授業中に携帯を使ったとか着信音が鳴ったら携帯を1週間没収することになっている。まぁ年頃だから携帯電話を取り上げられるのは耐えられないんだろう。塾のルールも塾長の指示も無視することは、ここでは死刑を意味する。

「おい!誰の携帯だよ!よぉ!!!」30代眼鏡をかけた中年男性の怒鳴り声と机を拳でたたく音が隣の教室にも響いた。でも誰も名乗り出ず、教師室に一人一人呼び出された。自分は悪くないのに恐怖で泣きじゃくってしまった。結局、塾長は授業を潰して怒鳴りまくったが、犯人は分からず最悪な雰囲気でその日を終えた。

でも逆に、真面目系で育ちの良い感じの女の子は耐えられない環境ではあった。この恐怖政治がトラウマで、卒塾後も塾の送迎バスを見ると動悸がする子もいた。

塾の恐怖政治に耐え、みんな志望校に合格した。でも、大半の子は勉強嫌いになり成績もかなり低迷してしまった。自分もその一人だ。とにかく勉強が嫌いになって、あと塾=恐怖政治のイメージがあったので、塾に通いたくなかったし、通信教育ですら拒否した。

恐怖政治の記憶だけが残っていたので、よくわからないが「勉強をしなくては怒られる」という謎の強迫感でぐったりしてしまい、勉強に集中できなくなった。数学は毎回赤点だった。でも英語は割と得意だったから命拾いした。

でも、親も進路について話し合いができていなかったので、「何がなんでも国立!」という学校の目標に従うしかなかった。「勉強しなくちゃ」という強迫観念はあるが、勉強はできないし成績も底辺。ノイローゼになり、高校3年生の5月から6月の間学校を休むことになった。

この時、素直に「成績不良だから学校に行きたくない」と親に言えばよかった。でも、半ネグレクト家庭で、子供の感情表現を握りつぶすような環境だったから言えるはずがない。というか、自分の感情に鈍感だったから、当時の自分は何でこんな精神状態になってしまったのか理解できていなかった。

本調子ではなかったが「早く復帰しろ」と親に追い込まれた形で1か月で復帰。しっかり休むことができたのと、担任の先生は理解がある人だったので、普通に受け入れてくれた。

補習が必要だったがなんとか卒業。当時の担任には頭が上がらない。

変な言い方になるが、浪人生活は天国だった。いい意味で放任主義でアットホームな雰囲気なのが自分の性格とマッチした。自分は恐怖政治よりも放任主義のほうが合うというのはいい発見だった。まぁ、比較の対象が、多様性のある()公立中の生徒が集まる環境と進学校出身者が集まる環境なので意味は無いが。

自分は志望校に合格し、進学先は自由放任な感じだったのでよかった。

スパルタ塾の卒塾生のその後を追ってみる。

特にトラウマが強かったN子は、勉強のモチベーションを完全に失い、幼稚園教諭を目指す学校に合格したが、このことは誰にも言いたくないとこぼしていた。他のK子は、失意のうちに地方の福祉大学に進学した。

二人とも劣等感に苛まれていた。問題の根底にあったのが勉強以外に得意で打ち込める趣味的なものが無かったことだ。N子は絵が上手だったが、中学時代から一緒にいたR子が親友にして最大のライバル。いつもR子と絵で比較される日々、勉強のやる気も起きない。中学時代の自信はへし折られ、友達を作ることもできずN子の顔はいつも暗かった。あと、N子の母親は自分の子供の成績をご近所さんに自慢するタイプだった。だから、高校に入って勉強も何もかも不調になってから親との関係もギクシャクしてしまったのかもしれない。

ところでR子は現役で芸大に合格した。

K子も同じ感じだった。何かの用事で地元の駅で電車を待っていたらK子に話しかけられた。高校時代は勉強も不調、友達もできない、部活も意地悪なOGがいて嫌な思いをした等、本当に鬱々とした日々だったと語った。思い出してみれば、高校時代、私がK子とN子の前で参考書を開いて勉強していた時の話。私に聞こえる声で勉強していることを揶揄する言葉が聞こえてきた。当時は「なんだよ意地悪な奴らだな」と思ったけど、そうか当時二人とも限界だったのかと。

K子は進学先では人間関係に恵まれたようで、大学生活は楽しいと語っていた。今の自分を肯定できると過去にも向きある気力がわいてくるんだな。

他にも要因はあると思うけど、中学時代の恐怖政治はその後の人生に影を落としたのではないかと考えている。確かにスパルタ教育のおかげで、高いレベルの高校に合格できた。まぁ塾としての役割は十分に果たしているけど。でも勉強以外に自分を肯定するとか、他人と繋がる方法や趣味を持っていなかったことが足枷になったと思っている。

これは家庭レベルの話なのは承知している。趣味や特技が無い、人間関係が苦手な状態でスパルタ塾に行く場合は、将来勉強が嫌いとか不得意になるような状態だけは避けたほうが無難かなと思う。

田舎だとその塾しか選択肢にないということもあるだろう。子供相手だと強権的で無礼な態度を取りやすくなるなので、講師の言動に引っかかることがないか、日常的にコミュニケーションを取る必要はありそう。もしも度が過ぎているようなら、対処法を一緒に考えるだけも、なにもしないよりマシだろう。

そして、勉強以外に夢中になれることを見つけること。そうすれば、勉強で躓いても自分を肯定できる趣味、友人に巡り合うことができれば、今の自分を肯定できるかもしれない。