母との関係(2/3)

親から何も教わらず、いい方は悪いが"野蛮"な子供時代。ド田舎で粗野な人が多かった地元で自分の存在はギリギリ許された。でも、高校以降にツケを払うことになった。

高校の同級生は「自分を大切にすることと身勝手は違う」「NOと言ってもいい」「相手の時間を尊重する」を身に着けた人たちだった。それができなかった自分は学校で孤立した。誰に対しても優しい人からも見放された。

ただ、遠回しに釘を刺すなど逆ギレされるをリスクを負って指摘してくれた人たちもいた。でも当時の私には単なる嫌味にしか聞こえなかった。大学でも同じ過ちを犯した。高校時代と違うのは、みんなお金持ちで品がいいのでわざわざリスクを負ってまで野蛮な私に指摘はしない。初対面でバシッと線を引かれ、表面上の付き合いされ拒否され、気が付いたら孤立していた。

アルバイト禁止だったことも事態の悪化を招いたと思う。色んな人と交流すれば、立ち振る舞いや社会のルール、チームワークを学ぶことができ、人間関係もかなりマシになったかもしれないと後悔している。禁止された理由は「学生の本業は勉強だろ」という母の言葉だった。あと「お金を稼ぐことを甘く見るな」だった。50代で手取り15万円だったので、まぁ心の底の声だったのかもしれない。

母はなぜか貧乏だと思われることを病的に嫌がった。そんな母の意味不明な拘りというかプライドからそんな発言がでたのかもしれないが。

あと、往復4時間かけて通学したことで、同級生との交流が極端に少なかったことも、コミュ力が育たなかった原因だと思う。表情が硬く意思疎通が難しいから仲間外れにされたのもなんとなく納得できる。それに、バカにされたくないという恐怖心から小難しい知識を振りかざしていたので、本当に嫌な奴だったと思う。

自分のやりたい事を封印されてきたし、自分の頭で考える癖も、適度に人に頼る癖も無く、読み手の気持ちを考えて文章を書く伝える習慣もなかったから、大学のレポートの出来は最悪だった。だから、これらの総合力を問われる留学の志望動機も満足にかけず最悪な内容の書類を出し結果不合格。その辺は一年後になんとか修正して乗り切った。

人生の転換点は1年海外で生活したことだ。実家はあまりにも貧乏だったので、給付型の奨学金ももらえ、運よくその金額内で貯金もできた。コミュ障な家族から距離を取って、常識人と密に交流する機会がたくさんあったことで、まともな人間関係はどんなものかを知ることができた。それでも課題は山積だったが。

非常識で他人との境界線を平気で越えてくる人間に囲まれて育ったので、似たような困った人たちに絡まれることも多かった。見かねた友達が「気をつけろ」と注意してくれたおかげで、あの人たちが要注意人物であること、そしてそんな人たちにはハッキリとNOと言っていいことを知った。人間関係のトラブルは結構減った。

きっぱりとNOが言えるようになったことで、家族との言い争いは増えた。